発刊に寄せて
「発言し ながら暮らしたい」
それは、ただの世間知らずの人間だったぼくを、ただの人間に育ててくれた国立で聞いた言葉でした。東京ではじめて女性市長となった上原公子さんが、政治家としてのコピーに使っていたものだと聞いています。
2008年、ぼくは国立市に民法改正の陳情を出すことで新しい市民運動を始めました(ぼくは面バレしていたので陳情筆頭者は他の人に頼んだ)。駅前のファミレスでいつものように市民運動の打ち合わせをしていたときのことです。「じゃあとりあえず次の3月議会に陳情を出してみよっか」といつもの流れになりました。
そのころ子どもに会えなくなって法制度の問題について知ったぼくは、この問題でもやってみたら子どもを会わせない元妻も驚くかな、という感覚で陳情提出について一晩考えました。翌日から同じ子どもに会えない親がほかにもいると聞いて相談に行き、陳情を出し、その後、彼女と立川市の記者クラブで陳情と集会と署名集めの告知をしました。
審議の中では「こういう陳情が出るのも国立だからだ」という議員の発言がありました。自分の個人的な問題であっても、発言することによって政治化することができる。「発言しながら暮らしたい」という言葉は、政治はそこらへんにいる人間がするものだということを体現したものとして、国立からぼくが得た言葉です。
今ぼくは、ライターとして長野県の大鹿村から発言しています。村の人は人口800人の村が何か言ったところでと言いたがります。でも村が発言するのではなく人が発言するのです。どんな村や町に暮らしていても、昔から自分なりの方法で発言し続けてきた人はいます。
インターネットが普及した時代、発信の場所を問われることなく、世界中に自分の意見を届けられます。しかし、発言しながら暮らすのであれば、自分の個人的な問題はプライベートなことではなく、社会的な問題として語ることもしていいはずです。村でもぼくは議会はじめ公の場で自分と子どもたちの今置かれている状況を説明します。そうすることが世界に自分や子どもたちを受け入れてもらう手続きの一つであると感じたからです。
2025年、婚姻外の共同親権に関する民法改正の国会審議においては、子どもに会えないのはその人に個人的に問題があるからだというヘイトスピーチが、左派言論の中から湧きおこりました。弁護士たちは徒党を組んで代理人を買って出て、実子誘拐の被害者のメディアへの発言について、名誉棄損やプライバシー侵害を訴える民事訴訟が行われました。
いわゆる口封じを目的にしたこれら運動やスラップは、プレイヤーとして国を訴える訴訟を担っていたぼくたちへの挑戦でした。また、そういったヘイトをためらわなかったメディアをぼくが公然と批判することで、ぼくは取引先や古巣を失いました。
いったい、主義主張より自分の子どものほうが大事だという人間がこの世に少なからずいるということを、人権やジャーナリズムを口にしてきた連中は想像しなかったのでしょうか。彼らは原稿料を得ることを生計(たつき)とする在野のライターを見下していました。何よりぼくが怒りを覚えたのは、そういったフリーランスや市民団体を狙い撃ちすることで、無名の一人ひとりの発言をも口封じできると考えた、彼らの選民思想です。政治を左右できるのは地位や権力のある自分たちだというおごりがそこに見てとれました。
ぼくの母はただのその辺にいるおばさんですが、本人にしたら痛いことをズケズケ面と向かってよく言っています。息子のぼくが感心すると「だっていばっちょるもん」とすまし顔で口にします。それはそこら辺にいるただの人間のぼくたちが、権力者の専横に対するときの基本的な姿勢の一つではないでしょうか。
「言わねばならぬこと言う」(桐生悠々)がジャーナリストのエリーティズムに基づくなら、「言いたいことを言う」はぼくたちの武器です。不十分な民法改正がなされて家族や社会のあり方を模索するのに暗中模索する中、言いたいことが言えなかったあなたの言葉を、何よりぼくは聞きたいのです。
共同親権を主要なテーマとするメディアは運動の中にしかありませんでした。でも発信する場を持つことでぼくたちが政治に関与してきたのも事実です。「言いたいことを言」い、発言しながら暮らすことで、ぼくたちは「ちゃんと共同親権」への道程を探りたいと思います。
(2025年5月13日)
共同親権運動とは
単独親権から共同親権へと転換することで男女平等と子育ての機会均等を目指し、「親どうしが別れても親子が親子であるために」する活動です。単独親権制度の撤廃を目指します。「共同親権運動」はそのための任意団体です。
共同親権運動とは
ちゃんと共同親権











